WILD ARMS 2nd IGNITION
(c)1999 Sony Computer Entertainment Inc.
何か争いごとが起きた際、人は英雄の存在を求める。 頼れる存在というのか、その人物についていけばとりあえず安心できる。 そういう人物。
『英雄』なんて必要ない。
「ワイルドアームズ2」は一貫してこのことを訴える。主人公は、この『英雄』になることに憧れる青年、アシュレー・ウィンチェスター(アシュレーについては、CRPG史上初?の複雑な事情があるのだが、これは後述)。当初、英雄に憧れたアシュレーではあるが、物語が進む中、過去の英雄にふれることにより次第にその存在価値を疑い始める。英雄とは自らすすんでなるものではなく、祭り上げられるモノ。言うなれば人々の生け贄にすぎないのではないか、と。
たまたま人より少し強かったから、特殊な才能があったから、等の理由で勝手に英雄に祭り上げられていく。最初は、『英雄』という言葉の響きから悪い気はしないだろう。しかし、時が経つにつれ、その存在の重さに耐えがたくなる。孤独感が増していく。そう、英雄とは孤独なものなのだ。
ここで、物語に登場する3組の英雄――アナスタシア、ブラッド、ヴァレリア兄弟――について少し触れてみたい。
かつて、ファルガイアを焔の朱に染めた災厄があったという 地より伸びた焔は、天を焦がし 星の未来すら焼き尽くさんと渦を巻く 存亡の危機にさらされる人類がすがった たったひとつの可能性、『剣の聖女』 名も無き下級貴族の娘として生まれた彼女は ガーディアンブレード『アガートラーム』の呼び声に導かれ 立ち上がるすべもなかった人々は 聖女の剣のひとふりに希望を託し、未来を信じる (Manualより抜粋)この剣の聖女=アナスタシア。なるほど運命がかったお話、アナスタシアとはさぞ立派な女性なのだろう…。否。物語中で彼女は語る、「私だって普通の女の娘。恋だってしたいし、おいしいものだって沢山食べたかった…」と。英雄とは不自由な存在。好んで英雄になったならないに関わらず、その態度には英雄然としたものが求められる。英雄だって一人の人間、基本的には私達となんら変わることはないのに、人とは異なる『力』を手にしたばかりに英雄として祭り上げられる。人は様々な長所短所を持っている。そう、その長所が『偶然にも』人々を救うことができるような長所だった、というだけなのだ。偶然なだけで、彼女はこのような不自由な扱いを受けることになる。そして、彼女は剣を手にして7日目の夜、この世の存在ではなくなってしまうのだ……。果たして彼女は幸せだっただろうか…。
英雄と称えられた、元スレイハイム解放軍の兵士ブラッド・エヴァンス。彼はアナスタシアとは違い、自ら進んで英雄となる道を選んだ、というか一生懸命自分が信じた道を進んでいたら、英雄と呼ばれるようになった人物。彼は、アナスタシアほどの不自由は感じていなかったように思う。しかし、彼は孤独だった。かつて信じていた上官の裏切り、そして共に戦った仲間の死……(植物人間として生きてはいたのだが…)。時代が変わり、かつての英雄は「大量虐殺者」の汚名を着せられ戦犯として追われる身となった。物語序盤、彼は捕らえられ刑務所送りとなってしまう。戦争の英雄というのは大儀があるから英雄なのであって、なければ、また視点が変われば=大量虐殺者、となってしまう、というのはそうだと思う(ヒトラー、東条etc...)。そういった複雑な事情をかかえつつ、その後、主人公アシュレーと共に行動することになるのだが、彼はことある毎に『英雄とは…』という枕詞をつけて話す。そして決して自分のことを語ろうとはしない。英雄としての自分に誇りを持っているのか、あるいは主人公アシュレーに英雄のあるべき姿を語ろうとしているのか?そうではない、彼は人を信じられないのだ。英雄として、全て自分の力で解決し、また様々な責任も自分一人で負ってきた彼。人を信じられなくなるのも当然という気もするが、何か悲しい。幸いにも、彼は、主人公アシュレーと行動していくなかで、『人を信じる』ということを覚えて行く。
アーヴィング・フォルド・ヴァレリア、アルテイシア・ルン・ヴァレリア。「剣の聖女」の末裔でもあるこの双子の兄妹は、物語の後半に、世界を救うために自ら犠牲となり、アシュレー達に倒される。文字通り、英雄=生け贄、を体現している。しかし、なぜ彼らが犠牲となる必要があったのか。いや、なぜ彼らはそのようなことを考えたのだろうか。物語の展開上仕方なかった、というのはこの際置いておく。兄のアーヴィングは、自分が「剣の聖女」の末裔と知ったときに、英雄となるべく『アガートラーム』を抜きにかかる(*1)。しかし剣は抜けずに、大怪我を負ってしまい、一生戦えない体となってしまう。その後、彼は自らが英雄になるのではなく英雄の器となるべき人間を育てる(=アシュレーを"正義の味方"として育てる)ことに、専念することとなるが、彼はこの時の心の傷をずっと引きずっていたのではないか。『英雄として』なにを成すべきか。『英雄として』自分が犠牲になれば..........etc.etc。物語中、彼もブラッドと同様、人を信じられない人物なのではないか?という節が見え隠れする(敵を騙すにはまず味方から…みたいな)。頼りにはなるのだが、逆に我々主人公側からしても彼を全て信じることができない。人を信用すれば相手からも信じられる…とは限らないが、人を信用しなければ相手からも信用されない、ということは言える。彼に人を信じる強ささえあれば、あのような悲しい結末にはならなかった気がする。
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人は弱い。英雄も同様。
だが、人は互いに手を取り合うことを知っている。自分の弱さを肯定し、それでもなお、遠くを目指すと決めたとき、手を取り合うことを知っている。それは互いに相手を信じる強さがなければできないこと(ちょっとだけゲーム中の言葉を引用)。群れることを嫌う向きもあろうが、人間という動物は一人では生きていけない、これは事実。ならば、相手を信じて、自分を信じて、今よりももっと大きなことを成し遂げてみよう。
『英雄』でなくても僕たちは大きなことを成し遂げることができる いいや、孤独な『英雄』なんかじゃできないようなことだって みんなと心を合わせれば成し遂げることができたんだ どこにいたって、心をひとつに繋げれば ずっと仲間、きっといつまでも… 『アガートラーム』は邪神を葬るための兵器なんかではないわ 生きようとする命の力を束ねて、未来への扉を開く鍵なのよ 一人で振るう力ではないわ みんなで… みんな、いっしょに振るう力なの 全ては生きてこそなんです 誰かを好きになることも、ケンカすることも 生きていなければ始まらないんです 今日命の輝きが、未来の始まりを創り続けることで 明日がやってくるのなら―― 私達は無力ではありません 心を繋げる強さを持っています 昨日より今日が大好き 今日よりも、まだ知らない明日はもっと好きになれる みんなでいっしょに明日にいこうね 明日に…(*1)アガートラームは焔の災厄以後大地に突き刺さり、それを抜いたものは英雄になれるという伝説がある。